先にギタリストとして、作曲家としてメジャー・レーベルでの仕事をするようになっていて、シンガー・ソングライターとしては遅咲きのデビューだった20年前、夢の実現のため、色々なものに巻かれながらリリースした最初のアルバムは、自ら「欲求不満」とタイトルをつけるほど作家色の強い、納得のいかないものだった。

雑誌のインタビューを受ける度に「このアルバムで伝えたいことは何ですか?」と訊かれては困り、ラジオ番組にゲストで出演する度「この曲へ込めたメッセージは何ですか?」と訊かれては困り、嫌気がさして最後には原稿を用意し、無機質なまでに何度も同じことを語っていたのを憶えている。

グレた。

グレたことによって2枚目のアルバムは徹底して実体験・日常生活を歌い、自分の弱さや未練、ダメな部分をさらけ出した。

この時の創作活動が、未だに僕の作品の基盤になっているように思う。

プロデューサーにプリンセス プリンセスやユニコーン、スピッツなどを手がけてきた笹路正徳さんを迎え、名刺として「井上慎二郎」というタイトルまでつけこれからという矢先、所属していたレコード・メーカーが音楽事業から撤退。

難民となった。

難民となった僕はもう30歳を超えていたし、その当時は常だったリリースの度に行われるタイトなスケジュールのキャンペーンにも疲れ、一応再デビューも目指し「THE HIghKING」名義でミニアルバムを自主制作したものの、やはりもう「裏方に徹しよう」と当時の”プロデューサー・ブーム”に乗っかり、笹路さんのプロデューシング手法を見よう見まねで音楽プロデューサーを目指すことにした。

そんな最中、幸運にも当時18歳だった小久保淳平のプロデュースという命題を与えられ、のめり込み、本人がどう思っていたかはわからないが、結果小久保淳平とのユニットを組んでいることに近い状態だったと思う。

同時進行で、ほぼ実験と楽しみのために参加していたChirolyn & The AngelsでChirolynがメジャー・デビュー、これもChirolynのソロとしてのデビューだったが、対外的に見ればバンドとしての活動期間に近い。

小久保淳平もまたメジャーでの活動に疑問を持ち自ら離脱、Chirolyn & The AngelsもChirolynの意思により活動を休止、ぽっかり空いたところに出会ったのが山下祐樹、ラムジの結成。

あれよと言う間にラムジがデビューとなり、7年間メジャーでユニットとしての活動…。

並行して作家・アレンジャー・サポートミュージシャンとしての活動を生業としてきたものの、つまりずっとアーティスト(この言い方には未だに違和感)としての活動が軸として有ったのだ。

ラムジが3年強前に解散し、いよいよ今度こそ「裏方に徹しよう」と思ったが、まず大好きな旅がない。

そして、本番前は「なんでこんな辛い事に立ち向かわなければならないんだ」と毎回思いつつ、終わってみれば「こんな悦びは他では得られない」と思うライブがない。

ましてや軸が無くなれば、様々なオーダーに応えながら創る提供楽曲も、何が自分の役回りなのかわからなくなり、甚くブレかねない。

もう生涯組むグループの数は使い果たしたと思うし、解散も、他で忙しくても「やってる」と言い続ける限り活動休止も無いし、仕方なく(笑)ソロ活動を再開したわけだ。

ただ、いざ楽曲を創ろうとなると自分の声に対するコンプレックスも仇となり、俯瞰から見たプロデューサーとしても「50目前のおっさんが何やればいいのか」分からず、好きでは無い言葉である「自分探し」を相当にしてしまった。

こういう時「これしかない」タイプが羨ましい。

一芸に秀でない器用貧乏が、今更したくも無い「自分探し」しながら辿り着いたのは結局、実体験・日常生活に基付き、ユーモアとペーソスを孕む、王道であるのに曲がった感性によって創られた不器用なPops。

色々な技術や機材は進歩しているが、発するものは19年前から全く変わっていなかった。

ある意味、それでこその軸、悪く無いと思った。

前置きは5行で終わらせるつもりが、20年分を振り返ったら長くなってしまった。

それくらいのスルメ・ソングの数々になってくれたら嬉しい楽曲ごとの解説は、次回からという事で。

himawoikiru_jk

OILY RECORDS O-048
2016/04/16 Release
¥2,500(税込)